お知らせ(2014年7月) ● 7月27日に 木葉教会の総氏子身の上安全世界真の平和祈願大祭 が仕えられます。 天地金乃神様の広大なみ恵みと深いおぼしめしに対し、感謝の真を捧げるとともに、 世界の平和と人類の助かりを祈願する祭典です。 祭典後、韓国 国際センター所長 末永 錦也 先生 より 御講話 を頂きます。 |
今月の御教え(2014年6月) ● いのちの成り立ち 人間のいのちと生活とは、自分たちの思いだけでなく、それを超えた、目には見えないけれども人間をはじめ 万物を生かそうとする大いなる意志と、確かな働きによって営まれています。 人間だけでなく万物も同様の働きを受けているのです。 その大いなる意志と働きを、金光教では「天地金乃神」と称え仰いでいます。 そして天地金乃神様のはたらきが現れる場が「天地」なのです。 人間は、天地金乃神様から、たましいと肉体を授けられ、この世に生まれているのです。 |
お知らせ(2014年5月) 今月、5月4日 に 木葉教会の天地金乃神大祭 が仕えられます。 天地金乃神様の広大なみ恵みと深いおぼしめしに対し、感謝の真を捧げるとともに、 生神金光大神様をお差し向けくださった神様への思いを深め、御神願成就を祈願する祭典です。 |
お知らせ(2014年3月) 3月23日、春季霊祭が仕えられます。 私たちの命は天地金乃神様のお恵みの中で生かされている命であり、その命は先祖から私たちに、 そして子孫へと受け継がれていきます。 先祖をまつるということは、自分の命の元を確認し、子孫を大切にすることにもつながります。 この世あの世を通して助かってくれよとの天地の親神様の願いを自覚し、 そのことにお礼申し上げ、共に、「御霊の祭りは大切にせよ」との教祖様のみ心のままに 霊祭を迎えさせていただきたいと思います。 |
私たちの信心(2014年2月) 教祖様は、すべての人間は、等しく神心を与えられて、天地の間に生かされている神のいとし子であり、 神と人間とは、人間あっての神、神あっての人間という「あいよかけよ」の関係にあり、 その関係は、人間と人間、人間と万物の間にも生みだされていかなければならない、とお示しくださいました。 私たちは、生神金光大神取次を頂き、神様との関係を確かなものとし、 神様の願いである人を助けていくという生き方、すなわち、神様のおかげの中で生かされている喜びを確かめ、 神のいとし子としての自覚を深め、すべての人の助かりと立ち行きを願う生き方を目指していきたい。 |
木葉だより(2014年1月) 新年あけましておめでとうございます。 平成二十六年の新しい年を迎えました。 今、地球規模での自然破壊、環境汚染問題や対立や混乱で 広がる地域の紛争など、「難儀」というものがますます多様化・複雑化し、 その実際の姿が見えなくなってきている現代社会にあって、 教祖様がお開き下さったこのお道の信心の果たすべき役割の大きさを思わせられます。 信奉者一人ひとりが、「神の氏子」として生きることに実意を込め、 天地の親神様の御心をわかり、その御心に添うていくおかげを頂き、 本年迎えます教祖様ご生誕二百年のお年を迎えさせていただきたいと思います。 (新年特別号)平成二十六年 第十五号より |
12月のお知らせ(2013年) 今年もあと一ヶ月となりました。 教祖様は、「朝日を拝むものは多いが、夕日を拝みものは少ない」 また、「目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い」とも仰せられておられます。 本年頂いてきたおかげにしっかりと御礼を申し上げ、その御礼の心をもって 来年迎えます教祖様ご生誕二百年の記念のを御年をお迎えさせて頂きたい と思います。 |
お知らせ(2013年11月) 今月は、木葉教会 教祖130年 生神金光大神大祭 をお迎えさせて頂きます。 あらためて教祖様のご縁につながっての今であることに思いを寄せ、 ここからいっそう御礼を土台にした信心生活を進めてまいりたいと思います。 |
お知らせ(2013年10月) 教祖130年という節目をお迎えし、あらためて教祖様のご縁につながっての今であることに思いを寄せ、 ここからいっそう御礼を土台にした信心生活を進めてまいりたいと思います。 |
お知らせ(2013年 9月) 9月22日、秋季霊祭が仕えられます。 私たちの命は天地金乃神様のお恵みの中で生かされている命であり、その命は先祖から私たちに、 そして子孫へと受け継がれていきます。 先祖をまつるということは、自分の命の元を確認し、子孫を大切にすることにもつながります。 この世あの世を通して助かってくれよとの天地の親神様の願いを自覚し、そのことにお礼申し上げ、 共に、「御霊の祭りは大切にせよ」との教祖様のみ心のままに霊祭を迎えさせていただきたいと思います。 |
今月の御教え ● 私たちの信心 教祖様は、すべての人間は、等しく神心を与えられて、天地の間に生かされている神のいとし子であり、 神と人間とは、人間あっての神、神あっての人間という 「あいよかけよ」 の関係にあり、 その関係は、人間と人間、人間と万物との間にも生み出されて行かなければならないとお示し下さいました。 (2013年8月) |
今月の御教え ● いのちの成り立ち 人間のいのちと生活とは、自分たちの思いだけでなく、 それを超えた、目には見えないけれども人間をはじめ万物を生かそうとする大いなる意志と、 確かな働きによって営まれています。人間だけでなく万物も同様の働きを受けているのです。 その大いなる意志と働きを、金光教では「天地金乃神」と称え仰いでいます。 そして天地金乃神様のはたらきが現れる場が「天地」なのです。 人間は、天地金乃神様から、たましいと肉体を授けられ、この世に生まれているのです。 (2013年6月) |
向日葵(ひまわり)精神 腹にすえかねることや皮肉に聞こえる事を言われると、 それに対して一言で相手が何も言えないくらいの切り返しの言葉を捜していることがある。 そして気づかされる自分の浅ましい恐ろしい心の内容。 しかしそれは、お道の信心の真の教えに心を照らされたからであり、自分の心を中を冷静に見つめられた証拠でもある。 生活の現場の中には、気分が落ち込んだり、元気がなくなるような事柄が多々起こってくる。 そのような時こそ、ひまわりの花が太陽に向って暑い方へ暑い方へ向うような姿、そのような精神を持ちたい。 金光教の神様は人間氏子の親である。 だから人間の持つ、どんな汚い、浅ましい心でも、詫びて、少しずつでも本気で改まろうという心には、 たとえ失敗しても、それを責められる親神様ではない。 むしろその本気で改まろうと取り組む姿勢に、出来なくても出来たかのようにしておかげを下さろうという神様である。 親が謝ろうとする子供の姿勢に対して、それを許してやろうとする親心と同じく、 詫びれば許してやりたい親心にすがって、そこから少しでも改まっていこうとする精進。 そこに自ずと次第次第に心が清められ、いつの間にか自分の心を拝みたい心が開けてくるのではないかと実感させらる。 (教会誌第11号より) |
御神徳の掘り起こし 先日、木葉教会に参拝されたある青年の方が、「昨晩、御結界に誰かが座っておられましたが先生だったのですか?」 と尋ねられました。 しかし、その時間帯は、私もまだ御結界には座っておらず、「それは不思議な事ですね」とその時は伝えていました。 ところが、次の日の朝、よくよくそのことを考えた時、 「この教会にも、教祖様、金光様がお出ましになっておられる。御神徳が流れ込んでいるのだ」 という、実感を頂く事ができ、大変有り難い思いになりました。 ある先生が 「御神徳というものは、丁度、地中に宝物が埋まっているようなもので、 それを掘り起こさねば宝の持ち腐れ同様な事になる」というお話をなされたのを思い出しました。 そしてその掘り起こし方について、二十四孝というお芝居の中に出てくる、 竹の子掘りというのお話を例え話でなされました。 その内容は、この寒中に親が竹の子が食べたいという。 「この寒中にどうして竹の子があろうか」と言わずに、親が言われる事だからとして、 竹薮に入って掘ったところが、そこには自分の長年捜し求める刀がそこに埋けてあったという内容です。 ただ、「有り難い事だなあ、勿体無い事だな・・・」と、思っただけでは、相済まない事です。 教祖様がお書きになられた「くぼみの絵図」ではありませんが、 自分自身を掘り下げていくような、神様へ一歩でも近づいていく、踏み込んでいく精進が大切な事であり、 また、その事が御神徳の掘り起しにもつながっていくのではないかと実感しました。 (教会誌第10号より) |
覚帳・覚書に見る教祖様の願い 教祖様の信心体験が覚帳・覚書に書き記され、今日に金光教教典として残っています。 覚帳の起筆は、慶応三年、覚書は、明治七年になります。 この時、教祖様の神観が次々と変っていくと同時に、そのご信心内容も高められていかれる時代であります。 金光教教典の中にある、国枝三五郎の伝えの中で、 「わが一家を草紙(練習帳)にして神様のおかげを受けて人を助けよ」 とあります。 そういう信心が高まっていく時代だからこそ、 自身の信心体験を書き残しておかねばならぬ使命を感じられたからではないでしょうか。 一、覚書・覚帳に書き記してある内容から、このような信心をして(段階を踏んで)神となられた方。 一、一凡人がなぜ生神になる事が出来たのか。 一、教祖様は自身の信心によって何が明らかになったのか。 この三点の疑問に明瞭に答えているのが覚書・覚帳であり、自身の一生を手本として 「神様のおかげを受け、人を助けてくれ」 との願いを感じさせます。 そして、信心の根本(本質)と人間の助かりの根本は何であるか、その答えがあるようにも感じます。 (教会誌第5号より) |
天地の道理 を知るのが信心です。 総てのいのちを認め尊び 神と人、人と人、人と万物があいよかけよ で共に生きる世界を実現していく 世界を目指していきたい。 (教会誌第3号より) |
寛(ひろ)き心を目指して 『大根に 人参の赤きを求めず 人参に大根の白きを迫らず 牛蒡にその黒きをたたえ 蕪菜(かぶな)にその青き をほむ 自然の心 寛きかな』 大根、おまえは額が白いからよいが、人参、おまえは額が赤いからいけないとは言わない。 蕪菜よ、おまえは着物が青いからよいが、牛蒡よ、おまえは着物が黒いからいけないとも言わない。 大根の白いのも、人参の赤いのも、牛蒡の黒いのも、蕪菜の青いのも、分け隔てなしに慈しむのが大地の心である。 (歎異抄解説本より) この文章を読んで、教祖様の御理解を思い出しました。 「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし」 というみ教えです。 人間が生きていく中、様々な人との出会いがあり、そして自分自身の上に、 良いこと悪いこと様々な出来事が起こってきます。 その中で、少しでも自分に都合が悪い事が起きてくると、ついつい不平・不足を口に出したり、 態度で表したりしてしまうのが現状です。自分の小さな尺度で物事の良し悪しを計っているからだと思います。 大地のような心を目指していくためには、すべてを神様のお指し向けとして受け抜き、 それを心の根肥やしとしていく事が大切だと思います。 教祖様は、み教えの中に、『おかげはなし・・・』と断言されておられます。 信心をさせて頂いる者として、まずは、人を責めない自分を少しでも目指していきたいと思います。 (教会誌第7号より) |
日に日に生きる 人間は神様のおかげをいただいて生かされていると金光教では説かれています。 日に日に生きるとは、昨日を引きずらない事。 今日、今朝、今、また新しい生命(いのち)をいただいています。 新しく生きるのだという思いとその決意が大切です。 そうしたものをもっての一日の始まりを生きていく。 そうした毎日の積み重ねが人生というものを豊かにし、幸せにもしてくれるのではないでしょうか。 日に日に生きる。 日に日に生ききる。 教祖様も「日に日に生きるが信心なり」と教えておられます。 生きる根底に「神様、ありがとうございます」 という思いがあれば、もっと人生が豊かになれ、幸せを実感できるのではないでしょうか。 四代金光様も「世話になるすべてに御礼を言う心」と、常々仰せられておられました。 何事もお礼の心を大事にしていきたいものです。 (教会誌第4号より) |
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天地金乃神大祭・講師:加賀先生 | 天地金乃神大祭・参拝者のみなさま |
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4月8日御本部・天地金乃神大祭:加賀先生ご夫婦と金光楪(ゆずりは)の会の方々と |
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元日祭の御神前 | 元日祭参拝者記念撮影 |
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10月29日 郷ノ浦教会生神金光大神大祭参拝 |
七五三の日 鶴山はやて君・千楓(ちはや)ちゃん兄妹 お祖母ちゃん、ご両親と共に参拝 |
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10月7日後本部参拝にて | 鶴山さんとお孫さんの沙妃ちゃん 10月10日の月例祭にて |
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奥城外壁を水圧噴射機を使って掃除 御用をして下さった羽田野留男さん |
柿が美味しい季節ですね ^^ |
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9月18日木葉教会では秋の霊祭が仕えられ、 それぞれの家のご先祖の御霊様へ 御礼を込め玉串を捧げさせていただきました。 |
9月14日菊池恵楓園にて秋の霊祭が仕えられました。 この日は、熊本県下の教師会の先生方が参列・参拝され 入所なされておられる信奉者の方と共に祭典が仕えられました。 祭典後は茶話会をさせてもらい交流を深めました。 |
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中央・ブラジル国クリチーバ教会長梶原勝行先生 | 財田教会長梶原政昭先生と奥様の律子先生 |
8月18日、ブラジル国クリチーバ教会長 梶原勝行先生が参拝されました。 同日の夜、勝行先生の実兄・香川県の財田教会長 梶原政昭先生と奥様の律子先生ご夫妻が偶然にも参拝なされました。 同じ日に、ご兄弟の方々と信心共励をさせて頂き、神様の有難い働きを感じました。 |